無味な日常の備忘録

思ったことをそのままつらつらと。OD・薬の話メイン。

メンヘラは死にたいけど生きた証を残したい矛盾した話

みなさまご機嫌よう。みんな生きてる?大丈夫かい?

今年は暑すぎて少し外に出ただけで肌は真っ赤、汗は華厳の滝
そしてほぼ引きこもりのムミはちょっと電車に乗ってメンクリに行くだけでマスクをしてようが咽頭炎になるわ謎の熱で免疫力低下のダメダメ星人と化しているあり様です。
まっ、毎年あっちいな〜!!!日本は!!!!って思っているんですがね🤫

んで、こんなクソ雑魚体調&うんこメンタルで働けんのかオイ💢労働は?ナァ労働は?!!
と、周りからの目で察し求人に応募するも御祈りメールが返ってくるのがデフォ。
まあ精神の方の障害者は大抵の企業は雇いたくねぇよな〜〜わかるよ〜〜〜

以前、まだ働けていた時に勇気を出して手帳持ちです…と伝えたところ
『障害者だって知ってれば始めっから雇わないよ!!!』
と言われてしまったトラウマがあり、それが怖いのと後々責められないように身を守るためにも備考欄に『起立性調節障害と気分変調症です。』 の記述を必ずしてる。
御祈りメールはそのせいでもあると分かっている。

主治医からは就労支援センターいきなよ〜障害者枠で雇ってくれるからさ〜と毎度ありがたき助言を頂くもまだ自分の中では
"普通の人間として普通に生きたい"
との願望が強く踏み出せずに時間だけがすぎてゆくの。

ちょっとだけ就労支援センターについて話すと、この人は障害者である。と、理解のある会社&そして自分のやりたいことのある会社を見つけてくれる場所なんだって。
だから鬱がひどいので休みます…も通用するらしい。ほんとか?
そして障害者の人材雇うなんて会社に何の得があんの?って訳だけど、障害者を一定数雇うと国から会社へお金がもらえる仕組みなんだよ✌🏿
win-winの関係だね🤝🏿

しかし疑い深いムミには心配事があるのです…それは国からお金もらうだけもらって障害者だからって暴言吐かれたり雑用係ね!とかの会社に当たったらどうしよ…また仕事行けなくなっちゃうし最悪だけどそんな企業はないことを祈るばかり…。


こんなに死にたいのに何で生きてんの?自分のこと楽にしてあげなよ。ってこれ読んでる人は思うかも。けどね、理由があってまだ生きてるんだ。


自分語りで悪いがどうやって悪化したのか経過と原因を綴ろう。

元々小学生の頃からいじめにあっていた。中学生でもそうだ。その時から若干鬱っぽいものはあったがそこまで死にたいとは思わなかった。

家庭では幼少期から怒られると外に追い出そうとしたり実際には追い出されたり。過呼吸になることもしょっちゅうあった。
それも食事中に起こるイベントみたいなものだったため現在でも食事が苦手で食べると罪悪感が湧き苦しくなる。いわゆる摂食障害だ。

中学になると父親は単身赴任で自宅から遠く離れたところで暮らすようになり怒られることもなく一安心していた。

そして高2くらいの頃、父親は戻ってきた。

家の中ではギクシャクして父親もストレスを抱えていた。

そして恐れていたことが起きてしまった。

18歳の時、二つ下の兄弟が父親と喧嘩を始めた。とても大惨事で家庭環境はめちゃくちゃ最悪になりおかげで二次被害を喰らいメンタルはドン底。

声も出なくなってしまった。

けどたった1人の兄弟。味方でありたいと思って守ろうとした。

しかし裏切られた。

大学受験を控えていた兄弟はわたしに八つ当たりして暴言を吐いたりとしんどくなった。

自死遺族は辛いと聞くから、兄弟のために死なないで頑張って生きようと思っていたのに、ボロボロだった心が壊れた音がした。
もう修復できない。

この頃、あぁ、死にたいな。
本格的な希死念慮の到来である。


家に居たくないから、居場所がないから、とりあえず学校には行く。
けど鬱すぎて親友とも話せなくなっちゃって自ら壁を作り孤立することで何とか自我を保っていた。

1日一言友達と会話できたら花丸くらい、話せなかった。

移動教室の時もポツンと1人で行ってた。半年前までは友達とかたまってワイワイ移動してたのにね。

お弁当も食べられなくて毎日用意してくれた母親にはごめんねって思いながら駅のトイレに捨てていた。とんだ親不孝者だ。


そして学校も休みがちになった。


学校に行けても遅刻するわ早退したり。
6限まで授業が受けられた日があっても家に居たくないから当然帰りたくもない。

そこで保健室に行ってギリギリの時間まで過ごしていた。

保健室の先生はわたしの骨張った肩を触り食べられてないことを察したのか、おにぎりをくれたり、手動で血圧測ったりしてくれて親以上に心配してくれた。
その時の先生には本当に今でも感謝している。
ちなみに中学の時からずっと見守ってくれてた先生で、今現在でも親交はあり、会おうと思えば連絡がつく。

これほどまで気をかけてくれて時には褒めてくれたり世話焼いてくれている。
学校内でこの保健室の先生のことを悪く思う生徒や教師陣は一切いないだろう。

この先生は中学の時、保健室へ友達と遊びに行った時、朝から元気ね〜これ飲んで落ち着きなさい!と、リラックス効果のあるジャスミンティーを淹れてくれた。
あの時の優しさも相まってただのジャスミンティーのはずが特別な味に感じた。





それでもなお、すごく希死念慮強くて
オーバードーズに手を染めた。

辛いけどあと10年は頑張ろう。
10年後には死んでいい。
そう自分との約束した。





そこで、だ。今回のブログの題名

メンヘラは死にたいけど生きた証を残したい矛盾の話

これに話題を移そう。これが本題だ。



メンヘラは死にたがるけど生きた証を残したい生き物だと身をもって実感したし、何人もそのような人を見てきた。

まだsnsが無い時代、外部とのつながりを求め個人ブログを残す人がいた。有名な方だと二階堂奥歯南条あやが挙げられる。
生きた証を残すためにブログを更新し続けたのでは無いか。わたしはそう解釈している。

それと同義になるが見殺しにしてきてしまった重い罪がある。

希死念慮を抱えていることを知っている上、死に方やその人の考えをDMで何通かやりとりをして、止めることがもしかしたらできたかもしれないのに、とある人はわたしと話して1週間もせずに亡くなってしまった。

やるせない気持ちでいっぱいで何年も経つがその人を忘れた日は一度もない。

その亡くなった方は今、Twitter (X)の中でbotとして生きている。
生前、自身のアカウントをbot化し死後もツイートされるようにしたのだ。

予約ツイートを登録してたまに呟かれるのだ。何年も、それが続いてほしい。彼が本当はどこかで生きているような気がするからだ。

そして顔写真付きで自分はこのような人間であったとウェブサイトに残してある。
つまり、自身の生きる世界をネットに移し、生きた証をしっかりと残したんだ。そしてわたしの中でも、彼は生き続けている。

今の時代、ネットに流出した情報や画像は一度出したらもう消せない、ゼロにできない世の中である。
死にたいけど生きていた証をちゃんと残せている。
ちゃんと彼の存在の立証がこの先ずっと、残る。
これで彼の最後の望みは叶えられたのだろうか。



上記ではとある人物の生きた証について綴ったがこれからはムミ自身について話したいと思う。


始めの方に書いたがこれから10年は生きてみる。
つまり10年後には死ぬ。死んでもいい。と、高校3年生の時、決めた。

これは決定事項だから何が何でも変えられない。
変えてはいけない。

とても死にたくても、今死んだら高校生の自分が報われない。成仏できない。可哀想。
10年計画まであと少しだけ、たった3年なのに何で死んじゃったの?って後悔する。


その10年の間に自分が生きた証をどれだけ残せるか、生きた爪痕をいかに深く刻むか努力した。


もうデジタルタトゥーでもいいから。


死んだら誰かの記憶の中とネット上で生きるために。


そのために自分が何をしたか。死んだ後でも生きた証を残すために此処に記す。


高校生

・必死に勉強をしてクラス成績は常に1位か2位を保ち誰にでも優しく親切にした。
そのおかげか校長が推薦してくれたらしく『成績優秀で性格も良い。全生徒の模範生である』と卒業式で壇上に上がり県から賞状をもらった。


大学生

・服飾系の学科に進み制作するものは妥協せず何度もやり直しを重ね誰よりも良い作品作りに励み、こんな生徒がいたと先生、もしくは生徒に認知させようとした。
制作物は主に服、デザイン画、編み物などほとんど全ての作品を、模範となる作品としてオープンキャンパス用にと展示してくれた。
卒業制作でも100人程度の学科生の中から5名ほど選ばれ、そのうちの1人になれた。そして大学内の目立つところに自分の作品がセンターで展示してもらえた。

・高校同窓会の編集委員が立ち上がり高校生の時お世話になった保健室の先生からやってみない?とお誘いしてもらえた。
インタビューをして原稿を書いて、校正ののち書き直したり加筆したり自分の言葉でコラムを書いた。もちろん記者のわたし自身の名前入りで。そして一冊の冊子として高校同窓会に入っている人に郵便で届けられた。

・ネットに載ったものは消すことがほぼ不可能ということを利用してブログを書き始めた。それがこのはてなブログだ。
生きた証になると同時に自分の思っていることなど生きていてもあの時こんな気持ちだったんだ、と分からせてくれる便利なものである。
死んだ後もこのブログは残り続けるためクソな内容を書いたとしても生きた証拠というか爪痕を残せる。いい世の中だ。まぁ生き恥な部分も否定できないが。

・とある服飾界で西洋服の研究をしている有名な方がいらっしゃる。その方の個展に通い詰め、個展に来るただの人ではなく、色々と印象付けるために質問や疑問点を聞くたびに段々と仲が深まり顔を見ただけでやぁ!また来てくれたんだね!と認知されるようになった。
仲良くなれた証にアパレルの裏事情やこのブランドはヤバい。などネットニュースになったらとんでもないようなことも教えてくれた。これは仲の良いからこその特権であると認知している。
時には他の人にはやらない代わりに信頼を築けたのか勝手にトルソー代わりに試着して直したりなどもあった。彼の記憶の中にわたしという人間がいたと記憶の片隅にでもいたら嬉しく思う。


社会人

・どうしたら若いうちに名を残すかと考えたところ、プレタポルテと呼ばれる高級既製服にたどり着いた。入社したアトリエではコムデギャルソン、ヨウジヤマモトイッセイミヤケヴィヴィアン・ウエストウッド、ユミカツラ、ヒロココシノ、アンダーカバー、劇団四季、欅坂の衣装、など名だたるハイブランド等の制作に携わることができた。もちろんパリコレで着用するアイテムを担当したこともあった。ラウールがパリコレで着用したことは誇りである。
アトリエ1の出来損ないであったものの自分が少しでも携わった服たちがコレクションや展示会にて置いてくれたことは唯一無二の経験だろう。
これは想定外であったがちょっとした冥土の土産話にもなるだろう。

プレタポルテに携わる仕事をしていたため大学のゼミの先生が推薦してくれたおかげで大学のHPに活躍する卒業生として名前と顔写真が載った。これで良くも悪くもデジタルタトゥーの完成である。



このように死にたいが生きた証はちゃんと残したいのがメンヘラの面倒なところでもあり、最期の願いなのだ。

逆にそうではない消えてしまいたい系のメンヘラはどのような行動を取るかはわからない。
生きた証を残したいのか、別にそんなのどうでもいいのか。これからの研究課題でもある。


今のところこんな感じではあるが書籍でもネットでも誰かの心や記憶の中へしっかり爪痕を残し、自分の生きた証は既に現世で深くも浅くも残し切ったしやり終えたと思う。


今後の残りの3年間はどうしようか。 
虹の橋を渡った祖父母へ冥土の土産話を作るために色々なところを転々として体験することを増やそうか。気力があればだがな。


10年後には死んでもいい。と自分との約束、いわば許可を下したが、正式に言えば10年後の28歳の時に本当に死ぬのかどうか。
契約更新してあと3年、5年、10年、ともうちょっと頑張って生きてみるか再審をする時が来る。

心が揺らいでいなければ契約更新は無し。計画通り死ぬ。
心残りや成し遂げたいことが出来てしまったら契約更新するだろう。

ただ一つ、10年後も生きなきゃいけない、ちゃんと生きるから天から見守ってて!と思えることは一つある。

それは大切な人を作ること。恋人でもない、親友以上の大切にしたいと思えるような、絶対に悲しませたくない存在こそがわたしを長生きさせる一つの方法なのだ。



今は何とも言えない状況ではあるのは変わりはない。

だが、その時の心と環境の状況によりけりで決めようと、日々食らいつくように生きている。



最後になりますが暑さがまだまだ続く今日この頃、みなさまどうかご自愛くださいませ。自分の身を守れるのは自分しかいないからね!