無味な日常の備忘録

思ったことをそのままつらつらと。OD・薬の話メイン。

自殺について考える話

ストレス要因だった転職活動を終え束の間のひとときを過ごしているもののやはりod癖は抜けておらずブロンでぼんやりと夜を過ごす現在。
ある位置情報共有アプリで繋がっていた元恋人とはまだアプリ上では縁が切れておらず、かと言って切る勇気もなくダラダラとした関係を続けてしまっています。
ふと気になり先程元恋人の現在地を覗いたところ自宅におらずラブホであろう場所に居ました。きっと新しい恋人を作ったんだろうな…となんともいえぬ気持ちで追いブロン。

こんな生活を辞めようとブロンは我慢していましたが我慢をした後のオーバードーズほどいけないものはありません。
なんせ反動で一晩で1瓶空けてしまったのだもの。

人生計画を練り直し自分を見つめ直しているこの頃。
前までは死にたがりな人生でしたが最近前を向いて生きられるようになりました。

そこで一度ではなく何度も考え何度も泣いて落ち込み何度も未遂に終わった自殺について。自分の考えをまとめてみたいと思いました。



『自殺』
それは寿命ではなく自ら命の灯火をへ息を吹きかけ消してしまうこと。終焉。

初めて自殺について考えたことはいつだろうか。いじめが始まるまで死ぬこと=恐怖であったのに小学生の頃いじめにあってから死=救済との認識になってしまった。

『死』ついて考えてみよう。自分にとって死への考え方が2つ存在する。
1、自分が死ぬこと
2、自分以外が死ぬこと

1、自分が死ぬこと
=自殺すること
心が軽くなる。

2、自分以外が死ぬこと
=とても悲しく、関係が深い存在であったにつれて喪失感も比例して大きくなる
心が重く、痛み、辛い。

『死』への印象は上記の様に自分の死と他人の死ではお互い反対の位置に属する。これは自分の死、すなわち自殺に関する考え方が大きく関わっているせいであると考える。

また時間経過の存在する「今」を生きている以上死んでしまったら最後との思いや、もう死んでしまった人には今後会えない辛さが心に重くのしかかるのではないか。
もし死んでしまっても自由に会える(交流のできる)世界線になったら死は何を意味するものとなるのだろう。
現在『死』の意味するものは永遠の「別れ」であるが「別れ」を意味しなくなってしまったら『死』はなんでもない物へと化してしまうのではないだろうか。

客観視して、死んでしまっても「今」と同じく仕事をして生計を立ててどこかに出かけたり誰かと会話したりコミュニケーションを取り生きている時と同じく生活することができたらそれはもはや『死』ではなく生きていることに変わりがないだろう。
逆に主観的に『死』を見てみると自分の感情が関係してくるだろうと思う。そのため、死後は感情の起伏がゼロになってしまったらそれは素直に『死』であるのだろう。

その様な考えを踏まえ、わたしは死んでしまったらその人の時が止まり感情は一切動かないことと同義であるからこそ『死』は成立するとの結論に至った。

『死』=上記の考えを基盤に『自殺』について話を戻そう。


『自殺』
よく使われる言葉だが「死は救済」との言われ方がある。
救済であるとの考え方が根にあるからこそ自殺に踏み切ってしまう人がいるのではないだろうか。

死んだ後についての文献は異世界交流モノで時々目にする。信じるかは自分次第、真相はいかに。といったところだが、実際に死んで死の世界を全て知ってから生き返って本やらブログやらを書いた人は存在しない。(おそらく。)

そのため人は生きている間に死後の世界を知る術が無い。しかし死んでしまったら今の生活から解放されることだけは知っている。だから辛くなってしまった場合現状から離れるために死を選び自殺をする。

その時の精神状態は言わずもがな健康的では無く、死には縋る思い。死を信じている状態であり、死ぬことは救済であると思い込んでしまう。

しかし本当に死ぬことは救済であるのだろうか。
先程も述べたが死後の世界を知る人はいないし現在出回っている死後の情報はどれが正しいものかも分からずもしかしたら全てデマである可能性もある。
その中死ぬことは救済なのだろうか。

わたしが思うに、死ぬことは大きな試練であり、また人生で早かれ遅かれ一度きりしかない一大イベントでもある。
死んだ後のことに関する情報が一切無い中起きる『死』というイベント。自殺はとてつもないチャレンジだと考える。

精神的に追い込まれ負の時期を過ごしていた時は死は魅力的であり、死ねば仕事に行かなくてもいいんだ、この人に会わなくてもいいんだ、と、「これをしなくてもいいんだ」と逃げる術になってしまっていた。また生きる意味が見出せない状態でもあった。

「辛かったら逃げてもいいんだよ」との言葉があるがこれは悪魔の言葉だと思う。
人間生きている上で逃げる事は必要ではあるが、逃げてしまうと生活ができない場合が生じる。この際にも逃げ方が『死ぬこと』に繋がりやすいと身をもって経験した。

人が生きるためには何かとお金が必要になってくる。
このお金が絡むと大変厄介で、逆に言えばお金がないと生活できない。生きていくことが難しい。お金がないと心も狭くなり心の余裕もなくなる。

前に書いた記事の中に休職したことを告げたが、休職していると傷病手当金というものがもらえる場合がある。
しかしこの申請がなかなか通らず3ヶ月かかってしまった。この3ヶ月ほぼ全くの無収入でどうにかお金を得ようと必死になっていた。精神的にも落ち込み眠れぬ夜を幾つも過ごしオーバードーズを繰り返してなんとか生き延びることができた。
お金もないしどうしよう。心もしんどいしもう死のうかななどと何回思ったことか。

今回は転職がうまくいったおかげで気持ちを安定させることができたが会社からの収入のなかった3ヶ月の間に自殺してしまっていた可能性もあった。
原因はお金である。
お金がないと生活できない。だけど就職先にストレスがあり働くことが辛い。だからと言ってお金がないと生きていけないから仕事を辞めることができない。
自殺は救済なのだろうかと考える余裕もなかった。
その結果『逃げることができない』→『死ぬことだけが唯一の逃げる方法』となってしまった。

現在の日本で精神的に辛い場合、職を手放してお金を稼ぐ手段が無くてもちゃんと生活できる仕組みになると自殺を減らすことができると感じた。
もしもこの仕組みが簡単であれば救われる人は数多くいるだろう。そしたら自殺への道に進むことを選ばず人生を全うできるのではないだろうか。
実際、この方法で生活をしている人もいる。いわゆる保護というものだ。しかしここまで辿り着くまでがとてつもなく大変で国の機関をいくつも頼りやっとその生活を手に入れることができる。
だが本当に追い詰められて死のうとした人間がこのプロセスを踏み保護を受けられる段階まで来れるだろうか。わたしなら無理だ。死ぬことを選択するだろう。何故ならばそっちの方が手っ取り早く楽になれるから。未来のことを考える余裕なんてない。保護を受けてまで生きようと思えない。だって極限状態なんだもの。だからと言って保護を受けている人を否定するわけではない。ただ、生きたいとの思いが少しでも残っているんだ、すごいなぁと思ってしまう。この意見は最低かもしれない。だが生きたいと思えなければその行動力さえ起きないだろう。素直にすごいことなのだ。

このブログにたどり着いた貴方は自殺することや死について考えるほど行き詰まってしまったから読んでいるのだろうか。それとも興味本位だろうか。
もし前者であった場合、追い込まれた中、自殺を選ばず生きる選択をする事は未来が見えず心にとっても負荷であると思う。そんな気持ちを抑えて今生きていることはそれだけで偉い。
何度も考えただろうが自殺と死についてこの機会にもう一度自分と真正面から向き合ってみてほしい。
そして貴方には生きてほしいと思う。

さいごに。必ず今後生きたいと思える瞬間が来るから大丈夫、きっと上手くいくよ。貴方の心が少しでも軽くなることを祈っています。